それは 「死ぬと人はどうなるのか」 答えは 「人は生まれ変わる」です
解 説
生まれ変わりとは この世界を去り(死)、あの世を通り、また新たな人生(転生)がスタートします それの繰り返しが生まれ変わりです 人は生まれ変わりを何度も繰り返して卒業資格を得て解放されます
あの世とは この世界に生まれる前にいた本来の居場所(故郷)、新たな人生(転生)の準備をする場所
新た人生(転生)の準備とは この世界での人生を振り返り予定していた課題の習得を確認します 課題を習得していれば次の段階の新たな人生 課題の習得が不足の場合は学びなおしの新たな人生
卒業資格とは 貸し借りの清算です、人生の中で与えたもの(貸し)が奪ったもの(借り)を上回ること
貸しとは 相手の必要なものを施す事、無償に近いほど多くの貸しとなります
借りとは 相手の必要なものを奪う事、無償に近いほど多くの借りとなります
解放とは あの世(本来の居場所)に戻り本人が望まない限りこの世に戻ることがなくなること

あとがき 其の十
まとめ2
善い行いと悪い行い 善い行いは与える事、悪い行いは奪う事と私は理解しています。 最も善い行いは相手の必要なものを無償で与える事、有償の場合は適正以上の価値で与え、相手に得が大きいほど善い行いとなります。反対に悪い行いは相手の必要なものを無償で奪う事、次は有償で相手の必要なものを適正以下の価値で奪う事、相手の損が大きいほど悪い行いとなります。また相手が必要としないものや相手の成長を妨げるものはを与えても善い行いになりません。
善い行い(与える)=人生の貸し 悪い行い(奪う)=人生の借り
この人生の貸し借りはお金や物だけではありません、時間や家族など相手の必要としているものすべてが対象になります。そしてこの貸し借りは来世(肉体を有する新たな人生)にも継続していくようです。この世を学校に例えると貸しが多ければ卒業、借りが多ければ留年、借りが清算される(貸しが借りを上回る)まで留年は繰り返し続きます。
知らないで行う事と知って行う事 善い行為(与える)には貸し、悪い行為(奪う)には借りが発生します。これは法則、対象に関係なく発生する現象です。大人でも子供でも木に登り飛び降りれば落下します、これと同じです。悪い行為(借り)には善い行為(貸し)で清算しなければなりません。しかし『悪い行為と知らずに行った』場合は「過ち」であり「人の未熟さ」から発生するものです。経験したことがなければ大人、子供関係なく「過ち」をおかします。「過ち」の借りは重くはないようです。未熟なものは間違います、この世界は「過ち」から学ぶ場所でもあります。
次に「知って行う事について」です。物事を理解できていない子供と理解している大人が同じ「行為」をした場合、当たり前ですが物事を理解しているほうが責任が重くなります。『悪い行為と知って行った』場合は「過ち」ではなく「罪」になります。他に見つからなくても自分をごまかしてみても自分の心をだますことはできません。知らずに行う事(悪、未熟、過ち)と知って行う事(邪悪、成熟、罪)では責任の重さがちがうようですが、それがどの程度の違いかは私にはわかりません。ですが生まれ変わりでの貸し借りの精算は誰もが納得できる精妙で絶妙なものだそうです。
これは推測になりますが貸し借りの精算は自分のみではないようです。自分の身代わりに愛するものや親しいものが借りを返したり、貸しを与えられたりすることも考えられます。特に自分のために辛い事の身代わりになってくれるのは前世からあなたをよく知る深い縁と愛のあるものです。仏教ではそのような存在を菩薩とよびます。ですが自分の大切なものの苦しむ姿を見るのは自分の苦痛以上ともいえます。
笑顔を与える行為(貸し)を心がけましょう、過去の悪い行為は知らずに行った「過ち」ですがこれから悪いと知って行えば「罪」となります。そして「借り」は「貸し」によって清算されるまで人生を繰り返します。
不運と試練 生まれ変わりを知ると不運が試練に代わります。これまでは出来事に対して運が良かった悪かったと判断してきたことが、生まれ変わりを知ると自分の生活環境や出来事に意味があるのではないかと感じるようになります。貸し借りの清算は罰ではなく試練です、貸しを返しながら自分は成長していきます。苦しい状況に取り組み、乗り越える時が一番に大きな成長を得ます。出来事や環境に対して運が悪いと考えているときは人の成長は停滞します。人は生まれ変わります、焦る必要はありません、目の前の不運と思っていることを試練と考えて取り組んでください。結果は気にせず試練に向けて行動を続ける、それは間違いなく自分を成長させています。今の人生で結果が出なくても次の人生では花開くかもしれません。人生は試練だらけです、人生を続けるだけでも試練を乗り越えています。結果よりも自分の意志で試練に立ち向かっている行動が重要です。人は未来を知る事はできません、幸運、不運と感じていることが未来も幸運、不運なのかはわかりません。過去に幸運と感じていた事は温もりを感じる楽しい思い出です。ですが過去に不運と感じていたことが今の自分に大切な教訓になっていることが多くあります。本当の幸運か不運かの判断はこの人生の最後までおあずけです。目の前に起こる出来事はすべては幸運でも不運でもなく、自分を成長させるための人生の課題、取り組む試練です。
道義心 道義心は物事の良し悪し(善悪)を判断する自分の基準です。個人には道義心が与えられており、すべてがオリジナルです。ですから良し悪し(善悪)の基準は人の数だけあると言えます。そして個人の道義心の違いは人生経験の差が関係しているのと思われます。人生経験が多い人は物事に対する洞察力が深くなります。新たな人生でも道義心として継続され、その差が道義心の違いになると思われます。物事を大人の目線と子供の目線で見た場合、判断が異なることがあります。どちらも間違ってはいません経験と立場の違いです、道義心も同じです優劣はありません。自分だけが正しいと思うのは間違いです、道義心は人それぞれのレベルに合わせて与えられています子供には子供の道義心、大人には大人の道義心、子供もいつか経験を積み大人になります、誰もが通る道です。自分の道義心には自分が従う、他人は関係ありません、批判も間違いです、常にニュートラルでお互いの道義心を認めましょう。
道義心に優劣はありませんが、深さの違いはあります。尊敬できると感じる人はあなたより深い道義心で行動しています、逆に嫌悪感を感じる人は生まれ変わりの経験の少ないまだ幼い道義心です。自分も幼い道義心を持っていた時があります。優しく見守りましょう。傲慢になれば間違いを犯します、謙虚な姿勢で自分の道義心に従い行動してください